浅倉さんは3回目に移植したそうですね?
小学校6年生のとき、全身にあざが増えて病院へ。病気の自覚症状はなく、サッカーをしていたので、あざもそのせいだと思っていました。血液検査の結果は即入院。病名が「再生不良性貧血」とわかるまでに、転院もあり2~3週間かかりました。
移植をするかどうかは薬物治療で安定し、最適な時期を見計らってからのほうがいいといわれ、しばらく様子を見ることになりました。
高1になってから本格的に移植に向けて調整が始まりました。兄と姉は互いにHLA型が適合しましたが私とは適合せず、骨髄バンクで探すことに。ドナーさんはすぐに見つかり、3人に絞られたものの、全員同意が得られず、もう一度探し直すことになりました。
再度ドナーさんが見つかり、移植することが決まりました。ところが入院後、今度は私の血小板の数値が急に上昇して移植は中止。
退院後すぐに数値は下がりましたが、それから半年後の高2の11月に移植しました。最初に入院したときは不安で夜眠れないほどでしたが、次に入院したときは、もう「やるしかない」と。
移植当日は、ドナーさんの骨髄液を内心どきどきしながら待ちました。移植後は順調で1~2週間で数値が安定し、「無菌室を出られるよ」と先生に言われたときは、やっとこの隔離された空間から出られるとすごくうれしかったです。個室に移ってからは、GVHDでお腹が剥がされるような激痛と下痢で苦しみました。トイレとベッドを行ったり来たりの眠れない状態でつらかったです。
入院中はどんなことを考えていましたか?
個室では人と会うことがなく親としか話せませんでした。看護師さんが気を配って電子レンジの湯たんぽをプレゼントしてくれたり、周りの皆さんのやさしさがうれしかったですね。
退院したら、飼っている猫に会いたいとか、おふろに好きなだけつかりたいとか、友だちとファミレスのドリンクバーで他愛もない話をしたいとか、早く普通の生活に戻りたかったです。
▲友だちからのメッセージを飾った無菌室(浅倉さん)
▲退院時に看護師さんからもらった励ましの手紙(浅倉さん)
進路で理学療法士を目指したのは?
高校は大学の附属校でしたが、入院中は院内学校に転校して高3で復学し、残りの高校生活の前半は部活で残りは受験勉強でした。部活ですか?バレーボール部のマネージャーです。
入院してから理学療法士にあこがれ、外部の学校を受験することにしました。GVHD(移植後にドナーのリンパ球が患者の細胞を攻撃する免疫反応)で歩けなくなったとき、リハビリして約1か月で普通に歩けるようになりました。何も言わなくても、理学療法士さんが自分の体の状態のことをわかってサポートしてくれて、とても心強かったです。
大学を選んだ理由は?
小児病棟でがん患者さんが回りにたくさんいて、「がんリハビリテーション」という領域があると知りました。進路指導のほか、病院の先生にも大学選びで悩んでいると相談して、その専門がある大学を第1志望にしました。
今の生活はどうですか?
今は、ハードな生活になったり寝不足だったりすると体調不良になりますね。人よりは咳や鼻水が出やすいし、体が弱いなと感じています。現在は半年に1回の定期検診で経過観察です。直近の9月の検診では問題ありませんでした。今年は大学で実習の予定でしたが、コロナで延期になって残念です。
中田さんは3歳で発症したそうですが、覚えていますか?
その頃のことはあまり覚えていなくて、あとから聞いた話です。普段から全身に青あざが多く血が止まりにくいことがありましたが、ある夜鼻血が止まらなくなって病院へ。検査をして「再生不良性貧血」とわかりました。物心ついた頃からずっとそんな状態だったので、発症したという感覚よりは病気なのが普通って感じでした。とりあえず薬物治療で、できる限り様子を見ようという治療方針だったそうです。
中学に入学すると体調が悪化し、輸血をよくするようになり移植することに。妹とは適合せず骨髄バンクで探すことになりました。ドナーさんはすぐに見つかり、中2の8月に入院し9月に移植しました。学校は中高一貫校で授業スピードが早く、入院しながら勉強するのがしんどかったです。テストのため病院から学校に行ったことも。入院中も課題に追われたりテストを受けたりしていました。
入院生活は、始めは事の重大さがわかっていなかったですね。無菌室に入ってからは、吐き気や倦怠感でしんどかったという記憶しかないです。ドナーさんの骨髄液を見たときの気持ちは、「これを入れたら終わるんだ」と。移植後は熱が下がらない状態が続きました。血球貪食症候群と急性GVHDを合併していたそうですが、GVHDとは別の原因だったようですが、自分にはなにも知らされないうちに治療を受け、回復して退院しました。
▲移植後、一般病棟で(中田さん)
入院生活の支えになったものは?
親がつきっきりで看病してくれました。妹とはとても仲良しで、交換日記をしました。友だちもLINEや千羽鶴をくれて、3千羽鶴にもなりました。看護師さんたちが14歳の誕生日にお祝いをしてくれました。生ものはだめなので、おもちゃのバースデーケーキを病室に入れてくれて。すごく感動しました。
▲妹との交換日記(中田さん)
▲看護師さんにお祝いしてもらった14歳のバースデー(中田さん)
退院してからの生活は?
学校が大好きだったので行きたくてしょうがなかったです。行けるようになったのは年明けの1月からで、廊下でクラスのみんなが出迎えてくれたのがうれしかったです。中3からは元気で過ごしました。
バドミントン部に入っていましたが、結局1年のときの筋トレで終わりましたね。進路のことは全然考えてなかったです。学校が楽しすぎて遊んでばかりいました。
移植後に別の病気になったそうですね?
高1に進んでから、満員電車に乗れないなどの体調不良になりました。甲状腺とマイコプラズマに原因があることがわかり、2週間入院。移植と関係があったかどうかは不明ですが、現在も治療中で、甲状腺の切除手術を検討中です。疲れやすいですが、薬を飲んでいるので、普通に生活できています。
大学の進路はどうやって決めましたか?
高1で2週間入院したとき、友だちがノートをとってくれて、それがすごくうれしくて、でもテストで悪い点を取ってしまったら申し訳ないと思いました。そこから勉強を始めたら今度は勉強がすごく好きになり、大学に入学できました。学部は、自分の好きなことを好きなだけ研究できる環境のところを選びました。現在の学部は1年のときはいろいろな分野に触れて、2年から方向を絞り込んで学ぶというスタイルです。ゼミは「心理学」を選び、現在結果待ちです。
心理学に興味があったのは?
もともと人と関わることが好きだったので、心理学を選びました。入院したとき隔離されて、友だちと会えないことがとても辛くて、そこから人と人のつながりの大切さに気付きました。人に興味があって、人とつながることが好きなんですね。
ユースアンバサダーに応募した理由は?
同情されるのはいやだったので、移植したことはあまり詳しく周りに言わないできました。でも話すことで何か役に立ちたいと思って、骨髄バンクのボランティアをネットで調べたら、ユースアンバサダーを見つけました。
私もそうです。同情されたくないと思っていました。でも自分の経験を活かしたい、発信したいという思いがありました。移植という経験は誰でも経験できることではないし、経験できたからこそできるものがあると思います。 抗がん剤を使う人はなかなか身近にいないかもしれないけど、発信することでわかってもらえることもあるかと。ユースなら発信したいという思いがかなえられると思いました。
間接的にでも病気と闘っている人と関われることがうれしい。自分の経験を通じて役に立ちたいと思って、ある日骨髄バンクのボランティアをネットで調べて電話したのがきっかけです。
移植を経験して思うことは?
移植して、今やりたいことができるのが幸せです。普通の人は感じられないものかもしれませんが、ドナーさんがいたからこその幸せだと感じています。私も周りにはあまり自分の体験を話してきませんでした。重く受け止めてもらいたくないので、言うタイミングがないというか。でも彼氏には伝えました。そしたら「やりたいことをやれるのはいいよね」と言ってくれています。
私も今、やりたいことをやっている幸せを毎日感じています。ドナーさんが提供してくださったこと。病院の先生や看護師さんが寄り添いながら治療してくださったこと。家族や友人に支えてもらったこと。院内学級の先生が毎日様子を見に来て手紙を届けてくれたこと。周りの人にどんなに恵まれているかを気づかせてくれました。 ありがたさを忘れないでいようと思います。
ユースの活動でやってみたいことは?
自分だからこそできることを協力したいです。ユースのミーティングは勉強になりました。骨髄バンクのことをもっと広めていきたいですね。
入院中、月1回はみんなで遊ぶ時間があって楽しかったので、入院している人たちと何かの形で関われたらいいなと思っています。たとえば小児患者さんを慰問する「病棟訪問」をユースのみんなでやれたらいいですね。
▲入院中の1コマ(浅倉さん)
それいいですね!私もぜひできたらいいなと思います。