小6で骨髄移植
2004年の秋頃から突然、鼻血が長時間止まらない、あざが消えない、疲れやすいといった症状が出現しました。それまでは小学校のドッジボール部に入って、長距離走も得意な明るく元気な私でしたが、徐々に笑顔がなくなり、引きこもりと暗い気持ちに落ち込んでいったのを覚えています。
母が異常に気づいて病院へ連れて行き、血液検査をして帰宅する途中、病院から「今すぐ大学病院へ行ってください」と連絡がきて、その日のうちに緊急入院。「再生不良性貧血」という病気とわかりました。短期入院を繰り返して通院治療を継続していましたが、すぐに風邪を引いたり、何をしても疲れやすく、学校は休みがちでした。
骨髄移植のため、両親と兄弟のHLA型を調べましたが誰も適合せず、骨髄バンクでドナーの方が現れるのを待つ日々が始まりました。先が見えない日々で、明日は自分がどうなってしまうのかという気持ちで毎日が不安でした。
しかし、幸いなことにドナーの方が見つかり、移植できることになりました。抗がん剤による前処置が始まり、激しい副作用症状の苦しみを超え、2006年6月に骨髄移植を行いました。
移植後は粘膜障害などの副作用に苦しみながらも、大きく日常生活が損なわれるようなこともなく、9月の終わりに退院しました。その後定期的に外来でフォローを行ってきましたが、現在まで再発もなく過ごすことができています。
▲入院中、主治医の先生と
▲9月の誕生日に退院。看護師さんからのお祝いメッセージ
看護師の道へ
家族や友人、学校生活から切り離され、先が見えない孤独な入院生活の中で、主治医の先生や担当の看護師さんが笑わせてくれたり、同室の友だちから多くの元気をもらいました。その当時は思ってもいませんでしたが、今はお世話になった病院で看護師として勤務しています。
当時、自分は不幸だと思い込んで、ふさぎ込んでいました。しかし病気を通して、たくさんの人の優しさと見知らぬ誰かの親切で命がつながっており、幸せに恵まれていたことに気づかされました。それは「次は誰かの力になりたい」という気持ちの芽生えとなり、私の人生を変えました。
日本赤十字社の献血からの輸血計24回、そして骨髄バンクのドナーさんからの骨髄提供によって、私は今生きています。名前も顔もわからない親切な皆さまに、この場を借りて感謝いたします。そしてどうかこれからも、その優しさで多くの人々の命をつないでいただきたいです。

Q 看護師になろうと思ったのは?
小学生の頃は血を見るのが嫌で、輸血のときは看護師さんに血液バッグを新聞紙で見えないようにしてもらうくらいで、とてもナースは無理でした。動物が好きで、それを活かす道を考えていましたが、大学受験で失敗。自分の原点は移植してもらったことにあると気づき、進路を決定するきっかけになりました。自分に向いているかどうかわからないけれど、チャレンジしてみようと奮起し、看護学部に進みました。
Q 血を見るのがこわかったそうですが、骨髄液のバッグは?
ちゃんと見られました。当時その病院での移植は初めての頃だったようで、病院中の先生たちが30人くらい集まってきました。主治医の先生に「血液型がO型からA型に変わるよ」と言われ、反抗期だった私は「お父さんと一緒だからいや」と言ったりして、先生たちが笑っていたのを覚えています。
Q 小児科での勤務を選んだ理由は?
自分が経験したことを少しでも活かすことができればと思って、勤務先の病院で小児科を第一志望にしました。今年3年目ですが、自分と全く同じ病気のお子さんを担当しました。治療に関わっていく中で、かつての自分を思い出し、胸が苦しくなることもありました。食事が摂れない時に食事形態を考えたり、内服薬の形態を考えたり、少しでも気持ちが和らぐよう寄り添ったりしています。
Q ご自身の体験から何を伝えたいと思いますか?
あまり積極的に自分のことを話すタイプではなかったけれど、話すことで苦しんでいる人が救われていくかもしれないと思うようになりました。自分の体験を知ってもらうことで元気づけたいと、大学時代、新聞に投稿したこともあります。今コロナで非常に血液製剤が不足して、医療現場では深刻な状況です。献血のありがたさを身に染みているので、その大切さをもっと知ってもらいたいと思っています。
Q 今後、目指していきたいことは?
移植の分野に興味があるので、病院で「移植コーディネーター」を目指したいと思っています。血液疾患だけでない小児がんのケアにも関わっていきたいです。ドナーさんからは私と親あてに手紙をいただきました。額に入れて飾っていて、今でもそれを励みにしています。